可愛いタイガールとの一夜の濃厚な出会いを求めて、キモオタ肥満男がタイの全県をひた走る「早撃二郎のタイ77県珍紀行」は、今回がミャンマーとの国境の街「ターク編」の2回目。初日に見て回った、タイで一番大きな木「クラバークヤイ」や80万年前もの木の化石が展示されている「マイクライペンヒン遺跡」巡りでクタクタとなった僕は、今日こそお姉ちゃんとの密会を実現しようと元気に朝を迎えた。目指す最初の訪問地は、タイ最大の水瓶で知られ、前国王の名前を採った「プミポンダム」
さ~あ!がんばるぞ~!
東南アジアで一番大きなダムへ!
東南アジア最大、アジアでも世界最大の三峡ダム(中国)に次いで第2位の大きさにあるのがターク県にあるプミポンダム。1964年に完成。総貯水量約135億立方メートルは東京ドームが1万個以上も入る計算となる。とてつもない巨大なダムだ。タイ国民の暮らしを支えるまさに水瓶の名に相応しい。そんな場所を僕が訪れようと思ったのは、最近ハマっているドローンによる空撮を行うため。スケールの大きい1枚がきっと撮れるに違いないと踏んだんだ。
午前9時すぎ、レンタカーを駆使して山道を登りダム湖岸に着いた。すでに観光客の姿が見える。列をなして止まっている大型観光バスのフロントには、手書きで中国語の難解な文字。団体名だろうか。こんな山奥のダム湖にも中国人観光客は来ているんだ、と妙に感心した。
ダムの上から撮影。ダム特有のアーチ状の形状が美しい。
雲の厚いあいにくの空模様。今にも一雨、来そうな予感がする。ダムの水もなみなみとして、気のせいかとても水量が多い感じがする。そこで近くにいた係員のおじさんに聞いてみると、今年は例年より10%以上も雨が多いのだとか。貯水率も7月半ばには50%を超えグングン急上昇しているという。大洪水のあった2011年の時よりも水の貯まるペースが早いのだそうだ。
ダムから撮影したダム湖。
こりゃあ、大変だ。そう口にした僕は、一方で、千載一遇のチャンスだとも思っていた。上空から絶景が撮れること間違いなし。ダムの堤頂からドローンを飛ばそうと目論んだ。バッグを空け、機械を取り出す。GPS(全地球測位システム)で位置情報を把握しようとスイッチを入れた。
その時だった。「おいおいおい!」と、さっきの係員のおじさんが大声を挙げて飛んできた。
「えっ!ダメなのですか」
「ここは飛行禁止区域。空から毒物でも撒かれては困るだろ!」
なるほど、そうか。おじさんが言うのも、もっともだと思った。国民の暮らしを支えるダムの上空はドローンの飛行が禁じられているんだ。
それにしても、間一髪だった。あのまま、おじさんを無視して飛ばしていたら、僕はダム湖の保安職員によって逮捕されて留置場送りだったかもしれない。
そう考えると、後になって身震いがしてきた。
仕方なく空撮を諦め、地上からの写真撮影で我慢することにした。
街へ通じる山道を下りながら随所で車を止め、撮影に励んだ。
見通しの悪いくねくね道で、残念ながらベストポジションはなかったが、それでも何枚かのダムの写真を撮ることができた。
タイで一番大きなメラ難民キャンプ
次に目指したのは、ミャンマー国境のサルウィン川の支流モエイ川からわずか8キロ。
国道105号線に沿って2.4㎢キロの狭い斜面に広がる「メラ難民キャンプ」だった。木造茅葺きの粗末な家々が密集する山間の村。タイ国内に計9カ所あるミャンマー難民キャンプの一つで、残る8カ所とともに約2000キロという長い国境沿いに点在している。メラはその中でも最大規模。かつては5万人もの人々で溢れかえった。今でも約3万人が故郷を離れてここで暮らしている。
1948年に独立したミャンマーは、国内に人口比で0.4%以上の主要民族を計8つ抱える多民族国家。ほかに政府が存在を認める少数民族が135もある。
このうち、国境山岳地帯に住むカレン族、シャン族、カチン族などとの間で独立直後から分離独立紛争が絶えなかった。
メラ難民キャンプも含め、タイにあるキャンプのうち7カ所はカレン族のもの。残り2カ所がカレン族から分かれたカレンニー族だ。
75年以降本格化した対ミャンマー政府との戦闘や人権侵害で、多くの人々が難民となって国境を越えてタイに逃れた。
その数は年々増し、84年にはタイ政府によって初めての難民キャンプが認定され、今でも9カ所のキャンプに計10万人が暮らす。
これらのキャンプで生活する人々の中には故郷への帰国を目指す人もいるものの、すでに長い年月が経過していることもあって、帰還を諦めタイなどの外国で暮らすことを希望する人も少なくない。だが、タイ政府は自国社会への受け入れには消極的で、かつては一定の解決策となっていた米国や豪州などへの第3国定住の道も最近は閉ざされつつある。
加えて、14年から始まった軍政は、所管する内務省を通じてキャンプに済む人々の移転を制限。所在確認を求めるようになった。
キャンプ間の移動も容易ではなく、住民たちは不自由な生活を強いられている。一方、難民支援を続けてきた非政府組織(NGO)も近年は財源不足などから撤退が相次ぐようになり、キャンプでの教育の低下などが心配されている。
こんな大変な状況下にある難民キャンプを是非取材してみようと思ったのは、軍政になってからキャンプへの入所許可が下りなくなったということを耳にしたからだった。なぬ!取材ができない。本当か!ならば行って、自分で確認するしかない!そう考えた僕は、すっかりと観光客の出で立ちで、現場を目指した。短パンにアロハシャツ、サングラスにサンダル。レンタカーを運転して、洒落た洋曲なんぞを流しながら。
東西経済回廊の一部を構成する国道12号線のタイ側最終地点ターク県メーソート。そこから真北に105号は延びる。分岐から走ること約60キロ。
周囲がすっかり岩山に取り囲まれた辺りに、突如として木造茅葺き屋根のバラックが密集して現れた。
猫の額ほどの小さな狭いエリア。ここに木造家屋が段々畑のように尾根に向かって連なっている。家屋の茶色と木々の緑との見事なまでのコントラスト。
メラ難民キャンプの概観は、塀で阻まれた国道上からも容易に見て、撮影することができた。
難民キャンプの様子。茅葺屋根が密集している。
簡易な塀は所々で鉄条網に変わり延々と続く。数百メートルおきにキャンプ敷地内から国道への出入り口があって、監視小屋の兵士らが目を光らせている。概観を撮影しようと粗末な路肩に車を止めると、すぐに兵士がバイクで駆けつけてきて注意をしてきた。
「マイペンライ、マイペンライ」
とおどけてみせるが、明らかに視線は僕が脇に抱えた一眼レフに向かっていた。
キャンプ地を過ぎて1キロほど走った先に、陸軍の「メラ・チェックポイント」があった。
椅子が路上に向かって3脚並んだ掘っ立て小屋。陸軍施設というのにどういうわけか、お爺さんばかりが座っている。
なんだか、警察が主催する日本の交通安全運動期間中のテント小屋のように見えた。
ここからキャンプ内部の様子が見えないかとチャレンジするつもりだった。
そこで一計、案じたのが
『下痢作戦』
すみませ~ん。ちょっとお腹壊しちゃってと身体の不調を装いお爺さんたちに話しかけトイレを貸してもらう寸法だった。
気の良い返事が返ってくる。そこで、これ見よがしにトイレに駆け込み、窓から外を覗いてみた。
ポケットには隠し持ってきたスマートフォン。ところが、どうだろう。開放感のあるトイレから見た景色は、一面の岩山、岩山、岩山。
木造茅葺き屋根のバラック群はとうに過ぎていたのだった。
中途半端なままメラ難民キャンプを後にすることになった僕。ちょっと、心残りもあったけど、それなりに貴重な写真は撮影することができた。
国道をソンテウ(乗り合いバス)で行き交うキャンプで暮らす人たちとも、わずかの会話を楽しめた。爽やかな感動を胸に、今日の宿泊地メーソートを目指すことにした。
「メラ難民キャンプ」
山あいの渓谷に突如現れる木造家屋群。軍人の監視の目を避け離れた林の中からドローンで撮影してみた。
上空から見た難民キャンプは圧巻の一言。この家々が何キロも続く。一体何戸あるのだろうか?
軒先にあつまる難民の人たち。
国道から撮影した1枚。奥の小高い丘の上にまで家が密集している。地滑りなどで建物が崩壊する危険はないのだろうか。
ミャンマー人置屋を探しに夜の町へ
チェックインが終わったのは、太陽がそろそろ完全に沈もうかという、そんな時刻だった。
ホテルはメーソート中心部の割と人通りのあるクーンパレスというホテルだった。門をくぐって目に前に駐車場がある静かな造り。その別館2階が今夜の寝床だった。
まずは、腹ごしらえだと、レストランの入居する商業施設テスコ・ロータスへと向かった。1階に携帯コーナーや雑貨売り場、食料品売り場など、どこにでもある造り。
足下はサンダル履きだったが、普通にタイ人客がショッピングを楽しんでいた。
入ったのは、タイ国内なら何ら珍しくない「レストラン・フジ」
昨日からタイ料理ばかりで、身体が日本料理を欲していた。験を担いでカツ丼とビールを注文した。
食後は真っ直ぐ、ピンポイントでメーソートの置屋群を目指した。アニマ・ユーティット通りとスン・カンカ2通りで囲まれたエリア。
群とは言っても、わずか3軒が軒を連ねて並んでいるタウンハウス長屋が1棟あるだけの場所だった。
向かって左から
いずれも同一のタイ人オーナーが経営しているらしい。時刻はまだ9時前。
PHOPHAだけに灯りがあり、10数人の女の子が暇そうにスマホをいじっていた。他の2店は女の子もほとんど出勤していない様子だった。
昼のPHOPHA外観。嬢らしき子がスマホを弄りながらボーッとしていた。ちなみに入り口には「レストラン」とあるが食事の提供はない。
夜のPHOPHA。中華系タイ人の団体が楽しそうに女を選んでいた。この置屋はかなりの人気で団体客がひっきりなしに訪れていた。
10数人いる中から僕が選んだのは、えくぼの可愛いラディーという女の子。とは言っても、若干年齢の上がった自称25歳。
話してみて分かったのは、彼女が少数民族のタイヤイ族であること。タイ語の会話はできるが、文字の読み書きはできないという典型的な国境置屋の女の子だった。
写真左端が今夜のお相手。タイヤイ族のラディーちゃん。
ラディーはしきりと話しかけてくる。LINEのID交換もすぐに済ませた。
ところが、すぐ目の前にいるというのに送られてくるメッセージは小声を録音した「愛してる」という音声メッセージ。
タイ語で返しても読めないというので、僕も音声で返信するしかなかった。
そんな遊びをしているうちに夜もだんだんと更けてくた。僕のビールも5本目を越え、すっかり良い気分になった。
僕はラディーの求めに応じて、ホテルに来るよう促した。この辺りはタクシーもない辺鄙な場所。彼女のバイクの後ろに乗ってホテルを目指した。