可憐なタイガールとの眩いばかりの出会いを求めて、キモオタ肥満男がタイの全県を駆け巡る
「早撃二郎のタイ77県珍紀行」は東北部ナコーンラーチャシーマー県の第2回目。
国内最大のだだっ広い面積を持ち、交通の要衝ともなっているのが人口260万人を超えるイサーン地方の玄関口、通称コラート。
最近ハマっている歴史の旅を初日に終えた僕は、睡眠もたっぷり、目覚めの良い翌朝を迎え、気持ちよくホテルでの朝食に臨んだ。
すると、考えることは今夜からのお姉ちゃんたちとの出会いばかり。
ところが、ふと思いを巡らせてみると、それまで何をして時間を過ごせばいいのか、考慮に欠けていることが分かった。
ハタと困った僕。まずは、ホテル受付のお姉ちゃんにどこか見所はないか尋ねることからこの日をスタートさせることにした。
今回の突撃旅行で僕が拠点にしたのは、ナコーンラーチャシーマー県中心部にあり国鉄駅にも近い「レオソーホテル」
城壁のある旧市街からほぼ真西に2キロ。ショッピングモールの「ターミナル21コラート」からも約1キロと交通至便の動きやすい場所だ。
7階建ての鉄筋コンクリート造りに30室ほど。数年前にリノベーションしたばかりらしく、質素な中にもお洒落な装いが気に入った。
そのフロントで、勤続3年目のジョイという女性スタッフにどこか観光に良い場所はないかと聞いてみた。
「やあ、おはよう。昨日はピマーイ遺跡に行ったけど、他に見所はないかな?」
「おはようございます、ミスター。そうですね、陶器村には行ってみましたか」
「陶器村。何ぢゃそれは?」
お姉ちゃん遊びの前に陶器村取材へ
その村は、県中心部から南東に約20キロ。国道224号線を車で30分ほど走ったチョクチャイ郡にあった。
国道から村への路地に入る玄関口には、高さ4~5メートルほどもある巨大な陶器の2対の水瓶。
その頭上に「ようこそ、陶器の村へ」と地味な看板が渡してある。
タイならではのどこにでもある光景で、注意していなければ思わず見逃してしまいそうだった。
ところが、この村、長い長い陶器生産の由緒ある歴史で知られる場所だったのだ。
村の正式名称は「ダーン・クイアン村」といった。国道と対を成すように流れるムーン川に囲まれた200戸あまりの小さな典型的な田舎の村。
路地を入ると、両側には陶器店がズラリと並ぶ。どの店もその裏手に、陶器の粘土を蓄える小屋と作業場、焼くための窯を備えていた。
村の生活そのものが陶器作りとともにあった。
ムーン川は、ナコーンラーチャシーマーとサケーオ両県境に水源を発し、ムーンボン・ダム湖を経て
ブリーラム、スリン、シーサケート、ウボンラーチャターニー各県を通じて、南ラオス・パクセーに至る一級河川。
その国境でメコン川に合流し、カンボジアを経てベトナムのホーチミン郊外から南シナ海に流れ込んでいる。
ここイサーン地方南限は、チャオプラヤー平原とを分かつ分水嶺となっているのだ。
どのように陶器を作っているのか。気になって、村を散策してみることにした。
通り沿いに車を止め、作業をしていそうな民家を一軒一軒訪ねる。その一つ、ピンさん方では夫婦と息子が分業で作業に励んでいた。
父が粘土を日陰干しし、母が焼き上がった陶器の仕上げをして、息子が塗料で色を塗っていた。
こうした分業作業は1週間ほど続くといい、毎週のように同じサイクルで生産を続けているのだという。
村ではこのような暮らしが、はるか昔から当たり前に存在してきた。
ふと、この村の起源や歴史を尋ねてみたくなった。そこで、ピンさんに尋ねてみることに。
快く応じてくれた。それは概略、次のような内容だった。
「かれこれ、300年ぐらい前でしょうか。ビルマからやって来た私らの祖先であるモン族が移り住み、村を開いたのがこの辺りです。
というのも、ムーン川沿いのこの辺りの土壌からは良質の粘土が取れ、陶芸に向いていました。
粒が細かく、湿度も適度に保たれる土で、焼き上がった時に出る独特のさび色が特徴です。
川の水質も優れていて、陶芸を伝統としてきたモン族にとって、またとない土地だとして定住することになったそうです」
なるほど、村にはそんな歴史と背景があったのか。
ここで作られる陶器は、政府の一村一品運動(OTOP)にも登録されているという。
ならば、職人が轆轤(ろくろ)を回す姿もどうしても見ておかねばなるまい。
ところがピンさん宅では「一昨日に終えており、来週にならないと回さないよ」とつれない返事。
うーん。諦めきれずに、他の工房を訪ね歩いてみることにした。
それは、10分ほど歩いた別の場所にあった。
通りに面したとある陶器店の売り場横を真っ直ぐ突っ切って裏手に。
さらにその奥、トタンの塀を越えた向こう側の掘っ立て小屋の薄暗い納屋のようなところに、轆轤を回す作業場があった。
近づくと、その片隅で上半身裸の男たちが素手で粘土をこねて埋め戻している。
聞けば、こうして空気を入れて土の穴に戻し、数日間寝かせるのだという。すると、良質な土に変わり、焼き上がりも鮮やかな色が出るのだという。
「ここだ、ここ!」
興奮冷めやらぬ声と表情で僕は言った(に違いない)。とうとう見つけた。現場だ。思い余って男たちに聞いた。
「今日は、轆轤は回さないのか」
すると、男の一人が
「担当の者が今、出かけている。もうじき帰ってくるぞ」と嬉しい返事。
そこで、この場所で待つことにした。
20分ほど経ったころだったろうか。今にも朽ちかけそうなミラーもないバイクに乗った一人の男が姿を現した。
迷彩服に、土で汚れたGパン姿。もちろん、ノーヘルにくわえ煙草だった。
男は巨漢の僕に気づくと、土をこねていた男に事情を聞き、合点が行ったとの表情。
「轆轤を回すのを見たいって?構わないよ」と二つ返事で僕を作業場に招き入れてくれた。
地元出身の36歳。サンヤーという名前の小柄な男だった。
陶芸歴10年のベテランは、この辺りではまだ若い方。
それでも、子供のころから大人に交じって轆轤を回していたため、腕は折り紙付きで確かとか。
早速、すぐ横に付いて見学させてもらうことにした。
滑らかな手の動きが、次々と火入れ前の半完成品を産み出していく。
大、中、小とサイズも文様もさまざま。ところが、いずれも一つ2分とはかからない超高速生産。しかも、寸分の狂いもない大量生産。
聞けば、小さいものだけでも1日300~400個も作っているのだとか。あっぱれとしか言いようがない。
僕は心から感嘆した。伝統工芸の奥義に触れた思いがした。
陶器の村には、たっぷりと3時間はいた計算だった。予想以上に堪能することができた。
タイ国内にはこのような陶芸に適した土を産出する川の土手などが数多く存在する。
そうした場所では古来より、モン族の人々らが定住をし、その文化を受け継いできた。陸上の国境を持つ、多民族国家ならではの歴史だと感じた。
途中でゆっくりと昼食を取りホテルに戻ると、時刻は午後4時を回っていた。いい時間だ。
未だぼんやりとした興奮状態にあった僕は、身体を少し休めることにした。
シャワーを浴び、ベッドに横になった。お姉ちゃんとの戦いに備える必要があった。
コラート市街地にあるカラオケ散策
午後7時すぎ、僕は自然と目を開けると、身体が独りでに動き出すのに気付いた。疲れはほぼ取れていた。
今一度軽くシャワーを浴びた僕は下着を改め、外出の準備を始めた。今日の目指すターゲットは「カラオケ」
ナコーンラーチャシーマーの街には、現地に駐在する日本人向けに、あるいは日本式カラオケ好きなタイ人の若者向けに(ひょっとして)
日本名を付したカラオケ店がいくつかあるとの情報をつかんでいた。確かめる必要があった。
まず、門をたたいたのが、ナコーンラーチャシーマー随一の歓楽街として知られる「ジョムスラーンヤート通り」にある「さくらんぼ」という店だった。
鮮やかな青色の看板に、赤色の縁取りの付いた黄色の文字。一目見て怪しさは伝わってくる。
ネットでの書き込みでも「綺麗どころが多い。お持ち帰り可」とあった。
ドアをそっと開けてみた。おーっと。すぐ目の前の両脇で、ソファに座った10人ほどの女の子たちが待ち構えていた。
一瞥しただけでも、細身の、足の長い美形が揃っていることが分かった。さすが日本人御用達の店。「幸先良し」が第一印象だった。
そのままボックス席にドッカと腰を下ろすと、チーママと思しき女がメニューを持って近づいてきた。
愛想は悪くない。ただ、日本語はお世辞にも上手とは言えず、かなりたどたどしかった。
説明では、1時間一人1000バーツポッキリ。この中に、レディースドリンクも含まれるのだという。
「安い!」初めはそう思った。ところが、次の言葉を聞いて耳を疑った。「ビールは1本だけね」
追加オーダーは別料金という。ビール1本で1000バーツ!そのまま退散したのも無理はなかった。
次に立ち寄ったのは、同じ通りの「ゆめ」というカラオケ店。
スタッフの良心的な接客態度が印象的だった。料金も、女の子を一人付けて1時間700バーツ。
飲み物代は別料金だが、それでもシンハビールが160バーツから。そう悪くないとの印象だった。
一つだけ言えば、女の子の年齢層が若干高かったのが気になった。
さらに、同じジョムスラーンヤート通りを進んで見つけたのがカラオケ「花見月」だった。
磨り硝子のドアの向こうから、大音量の日本語の歌が聞こえてくる。タイ人経営の臭いのプンプンする店。
だが、なぜか見ておきたいという第6感が働いた。
入店してみて、その予感は的中していた。若い女の子も多かったが、僕の目が釘付けになったのはノーイという名前の美貌のママさん。
少し年齢は行っていたが、それなりに可愛く、好みだった。ご機嫌になって写真も撮らせてくれた。
1時間800バーツでサントリーウィスキー飲み放題。レディースドリンクも100バーツと格安だったところが気に入った。
シリキット王妃が救ったイサーンのシルク村
タイを訪れた旅行者が求める土産品の上位に常にランキングされるのが「タイシルク」
では、それはどこで生産されているのと尋ねられると、簡単に答えられる人は少ないだろいう。
実は、ナコーンラーチャシーマーなどイサーン地方には桑の木が多く、古来から農家の副業として養蚕や機織りが行われてきた。
タイで織られる伝統的な絹織物は「マットミー」(マットは紡ぐ、ミーは細い糸の意)と呼ばれ、糸紡ぎから機織り、染色まで完全手作業。
母から子へ、子から孫娘へと受け継がれた伝統産業だ。近代化の父ラーマ5世が国力増強のための輸出品として注目したのも、この品質の高い絹織物だった。
その後、タイシルクの高い品質に目を付け、独自に商品化に挑んだのが元米国軍人のジム・トンプソンだった。
トンプソンは染料の天然素材を改め化学染料を採用。大量生産することで価格の安定化に努める。
結果、トンプソン・ブランドを付したタイシルクは不動の地位をつかむまでとなった。
だが、その一方で、昔ながらの方法で生産を続けるも、日の目を見ないまま衰退を続けるイサーン地方の絹織物産業があった。
ここに支援の手を差し伸べたのが故プミポン前国王の妻シリキット王妃だった。
王妃の呼びかけで基金が設立され、農家の女性たちはわずかながらも現金収入を得るようになる。
村の人々は今でも、この時の感謝を忘れずにいる。
この道30年のベテランというボウさん。息子と娘がいるが、いずれも後を継がずに会社員になった。
「私の代でこの仕事は終わりね」。そう話すボウさんの表情は、どこか悲しげだった。