タイ・レディーとの楽しい出会いを求めてキモオタ肥満男がタイ全土を駆け巡る「早撃二郎のタイ77県珍紀行」は
今回から新シリーズのアーントーン・アユタヤ編。
バンコクの北約60キロにあるタイ中部の言わずも知れた古都アユタヤと、防備の要だった北隣のアーントーン。
「アユタヤには、リトル・トーキョー」があると師匠のお告げを耳にしていた僕はいてもたってもいられなくなり、去る某月某日、一人で彼の地を車で目指した。
さて、吉と出るか凶と出るか。
アーントーン県とは?
アーントーンは元々、歴史的にウィセートチャイチャーンと言う名前でしられた町で、アユタヤー王朝時代には軍事要所であった。
その後タークシン王のトンブリー王朝時に現在の場所へ町が移動された。
県はバンコクから約108キロ離れた位置にあり、面積はわずか968平方キロ。チャオプラヤー川とノーイ川に囲まれており、目立った山地や山がない。
代わりに、数々の運河が広がり稲作に適した平地が広がっている。広大な平地に黄金色に輝く稲穂が実る水田が広がっている風景はアーントーン(黄金の貯水池)という
名称の由来になったと言われている。
寺院などの観光名所が多くあり、パーモークワラウィハーン寺の寝釈迦仏は有名。
小県にある世界最大の座仏とは?
まず向かったのは、人口30万人にも満たないチャオプラヤー川沿いの小県アーントーン。
ほぼ全域で複雑な運河が網を張り巡らし、至るところに溜め池が存在する水原の街。
こうした地勢から、首都アユタヤを敵から守る防衛線の一つとして古くから機能をしてきた。
14世紀から約400年間栄えたアユタヤ王朝。ひとたび戦争が起こると、ここから多数の兵士を乗せた船が敵軍を追い払いに国境へ向かった。
中でも西方のビルマ軍は手強く、強力なアユタヤ軍もたびたび苦杯をなめたほど。
そして、とうとう18世紀後期、そのビルマ軍によってアユタヤは滅ぼされるに至ったのだった。
この時、アーントーンにあって破壊されたのが、この地方の仏門信仰の対象であり
日常的に市が立つなど暮らしの中心でもあった寺院「ワットムアン」だった。
アユタヤ王朝の始期と同じ14世紀に建立した寺の、仏像という仏像、山門や本堂はほとんどが焼き尽くされ、瓦礫と化した。
それ以降、貧しい生活の中で、戦火で失われた寺が再建されることはなく、近年になるまで寺は風雨にさらされる状態が続いた。
その寺を廃墟から蘇らせ、仏像を再び建立しようという動きが起こったのは1986年のこと。
ルアン・ポール・カセームという一人の僧が当地を訪ねてきてからだった。ルアン・カセームは弟子たちとともに寺の復興を関係機関に働きかけた。
一方で、当地が古来よりタイの国土防衛に果たしてきた役割を広く訴えるなど、王室や海外の仏教関係者から協力や寄付も取り付けた。
こうして集まった再建資金は、なんと約1億400万バーツ。満を持して寺の復興事業が始まったのは92年のことだった。
工事は16年近くの月日を経てこの地に世界最大の座仏として仏像を復活させた。敷地内の高台に鎮座する座仏は高さ93メートル。
地上32階建てのビルに相当し、両膝の間の幅だけでも約62メートルもある。
肩の高さから肘までも約25メートル、手のひらだけでも約15メートル。顎から額までの長さは約12メートル。片耳だけでも長さ約4メートルもある。
いかに巨大な仏像であるかが分かるだろう。
構造は鉄筋コンクリート製でレンガやモルタルなどが素材として使用されている。
全身に金箔が施されており、太陽の光を受けると、燃えるように明るく輝くのが特徴だ。
こんな巨大な大仏が完成したのは、約10年前の2007年2月16日のこと。
当初はタイ人の参拝客らで賑わっていたが、近年は外国人の参拝客も見られるようになり、日本人向けの不定期ツアーもあるという。
復興されたワットムアンの総敷地面積は約72ライ(1ライ=1600平方メートル)と、従前よりもかなり範囲が広がった。
中央部の高台には黄金の大仏が鎮座し、その周りに通称「地獄寺」と呼ばれる副次施設が展開する。
仏の教えで生前に悪行を繰り返した者は、冥界の王(閻魔大王)によって裁きを受けなければならないとされる。
それが敷地いっぱいに、グロテスクな人形によって再現されているのである。
刀剣で首を刎ねられる者、胸を一突きされる者、目玉をくり抜かれ、舌を抜かれ、乳房を引きちぎられ、額を割られる者もいる。
揚げ句の果てに、生きたまま釜ゆでにされる者の姿も。人間として生まれ変わることを許されず、家畜や魚、亀の姿をした者の像もあった。
あまりのリアリティー、凄惨さに大人であっても思わず目をそらしたくもなる。
タイには、このような地獄を模した展示場が全国にいくつかあることで知られる。
その中でもワットムアンのある地獄寺はバンコクからもほど近く、交通路など比較的整備が進んでいることから、訪ねやすいイチ押しの施設とも言える。
見学に優に3時間はかけた僕は、バンコクに住んでいるのなら一度、訪ねてみるべきだと思った。
座仏のあまりの大きさと地獄寺の衝撃に、すっかり観光客気取りでワットムアンに見入ってしまった僕。フッと気を取り直し
「いけない、いけない。師匠の教えを忘れてはいけない」
と、この地の風俗情報、取り分け置屋を探してみることにした。
もう、この地方巡業ツアーも5回目。地元のことは地元のモタサイ(バイクタクシー)に聞くのが一番であることは知っていた。
そこで、ワットムアンの玄関口で客待ちをしていた運ちゃんたちに聞いてみた。
ところが、みんな不思議な顔をして首を横に振るばかり。
「女かぁ。女が欲しければ、アユタヤだろう。こんな田舎にはいないよ︒俺たちだってアユタヤに行くさ」
とにべもない。
「ここ(アーントーン)には何にもないのか?」と尋ねても
「聞いたことないねえなあ」と涼しい顔だった。
そんなやりとりをしているうちに、一人の運ちゃんが思い出したように顔を上げた。
「そういえば、この向こうにある涅槃仏(寝釈迦仏)では最近、綺麗な若い姉ちゃんがガイドを始めたって噂だ。
そっちのサービスは期待できないだろうが、見に行くのもいいんじゃないか」
待ってました。それだよ、それ。僕は礼もそこそこに、運ちゃんが教えてくれた涅槃仏のある寺を目指すことにした。
欲望のままに涅槃仏の寺へ移動!
その寺は、「ワット・クン・インタプラムン」と言った。アーントーンの市街地から北に車で10分余り。
スコータイ末期に建造されたという涅槃仏が、芝生の上に寝転んでいた。
周囲には神殿の柱の跡とみられる構造物の柱が数本。
他に、崩れた日干しレンガが蟻塚のようにあちこちに朽ちており、廃墟となった遺跡の中の寝仏というのが率直な感想だった。
涅槃仏の全長は約50メートル。バンコクにある王室寺院「ワット・ポー」の46メートルよりも長く、タイでは有数の大きさらしい。
黄金の袈裟が肩から掛けられており、右足の裏には参拝者が貼った金箔が幾重にも重なってあった。
ただ、遺跡の中の涅槃仏だったためか、観光客の姿はあまりなく、ワットムアンに比べて寂しさは否めなかった。
「こんなところに、本当にお姉ちゃんがいるのか」
僕が不安になったのも言うまでもない。
一通り見学を終えた僕の目はバイタクの運ちゃんから教えてもらった「お姉ちゃん」を必死に探していた。涅槃仏をグルグルと回ること3回り目。
とうとうターゲットを捉えた。肩まである黒髪に、上下ジーンズ姿の彼女。年齢は25歳前後か。
観光客を装いそっと近づくと、持っていた相手のパンフレットと思しき書類を指さして僕は話しかけた。
「こんにちは。いやあ、いい陽気ですね。あっ、それ(手に持っていた書類)何ですか?」
これ以上はないという、わざとらしい振る舞い。下心見え見えのアタック。表情もさぞニヤけていたことだろう。
だが、彼女は警戒することもなく優しい微笑みで返してくれた。
「これですか。参拝される方にアンケートをお願いしているんですよ。貴方も協力してくださいますか」
「待ってました。是非」と、そこまでは良かったのだが、受け取ったアンケートは全てがタイ語。
多少の読み書きならできたが、一度に何百単語ものタイ語を読み解く忍耐と根性は持ち合わせていない。
そこで彼女にお願いを申し出た。「すみません、読んでもらえますか」
黒髪の彼女はヌンと言った。彼女は一つ一つ用紙を見ながら質問を投げかける。
「年齢は」
「住まいは」
「職業は」
「年収は」
「学歴は」
「タイの歴史を知っていますか」
「涅槃仏は初めてですか」
そのたびに僕は鼻の下を伸ばしながら答えていった。
ただ、最後の質問だけは、何を聞かれているのか直ちには分からなかった。
首をかしげる僕に、イエス、マホメットなどの言葉を並そべる彼女。どうやら、信じる宗教は何かということらしかった。
そこで思い切って、「貴女ですよ」と答えるとポッと頬を赤らめたのが可愛らしかった。
アンケートが一通り終わるとヌンは丁寧にお礼を言って、校外見学で寺を訪れていた別の中学生グループの方へと足を向けた。
追いかけたかったが、無理を言ってはいけない。僕は喉元まで出かかった言葉をグッとこらえると、遠ざかる黒髪の後ろ姿を惜しむように見つめていた。
田舎の清楚なお嬢様という言葉がぴったりだった。
その傍らでは、陸軍兵士が敷地内を巡回中だった。ただ、巡回といっても、物々しい感じは一切ない、長閑な田舎の光景そのものだった。
そのうちの班長と思しき軍曹の階級の男が僕に話しかけてきた。
「お寺参りですか。感心ですね」
作り笑顔の向こうに、何かを探ろうとする意図もわずかに透けて見える。
「こう見えても私も仏教徒でしてね。仏を見ると落ち着くのですよ」
と僕は答えると、軍曹の男は「それは結構」とだけ言って離れていった。
伝統太鼓を作る村とおもちゃ研究所
黒髪のヌンの温もりを後に僕は次なる目的地に向かうことにした。寺院で知られるアーントーンだがもういくつかの見所があることも知っていた。
そのうちの二つには、是非とも足を伸ばしておきたいと考えていた。
一つは、日本の和太鼓にも似た伝統太古をつくる村。そしてもう一つが小指ほどの粘土から作る人形づくりの里だった。
伝統太古の村は、涅槃仏の場所から車で20分のところにあった。
タイ語で「ムーバーン・タムクローング」と言った。直訳すると「太鼓を作る家々の集まり」とでも呼べばいいだろうか。
路地を一本入ると、そこは伝統太鼓を作る工房があちこちに点在していた。そのうちのウイさん(56)の自宅兼工房は路地を入って50メートルも進んだ左側にあった。
この道40年というウイさん。訪ねた時は、ちょうど直径1メートルはあろうかという巨木から大太鼓の枠を削り出そうとしていた。
「何の木ですか」と尋ねてみたが、聞いたこともない名前だった。
成長は早いらしく熱帯雨林特有の樹木なのかもしれない。
その巨木から太鼓の枠を削り出し、両側に動物の皮を張って、最も大きなサイズの重低音の太鼓が完成するのだという。
隣接する作業場ではウイさんの二人の姉が小サイズの太鼓の仕上げを行っていた。
完成品から突起物(バリ)を取ったり竹の皮で模様を編んだりしていた。
「昔から、この方法で太鼓を作っているのよ。この村の太鼓は音が良いと評判なのよ」
と、上の姉のソムさん(65)は教えてくれた。
太鼓の村を出た後は、アユタヤ県境にもほど近い人形の里を訪ねた。
チャオプラヤー川沿いにあるその場所には、タイ語で「スーン・トゥッカター・チャウワン・バーン・バング・サデット」と言う施設があった。
あえて日本語に訳せば、「バーン・バング・サデット王室おもちゃ研究所」ほどの意味か。
早速中に入ってみることにした。建物は2階建て。うち1階部分は工房になっていて
ベテランの職人たちが自分たちの作業スペースで、熱心に人形づくりを行っていた。
白髪の男性はこの道40年になるというベテランのオーさん(65)
頭と身体が別々の組み合わせとなった想像上の動物の人形を作る専門家だといいこの日は頭が象で身体が魚という人形の制作に取りかかっていた。
別の作業場では、同様に職人歴30年の女性のポムさんが小指ほどの可愛らしい人形づくりに精を出していた。
あまりに愛くるしかったので「僕にも教えてください」と弟子入りを懇願したほど。
すると「いいわよ」とポムさん。
「ここを、こう折り曲げるの」と丁寧に作り方を教えてくれた。
ポムによれば、施設のある付近一帯は古来から川の氾濫による洪水が多い場所で、良質な粘土が取れるところ。
この土を原料に昔から人形づくりが盛んで村の伝統工芸産業だったという。
ところが都市化とともに作り手が少なくなっていたところ1976年に故プミポン国王(ラーマ9世)の妻シリキット妃が村を訪れ
伝統の人形づくりを呼びかけたことから再び盛んになったのだとか。
王室関連のプロジェクトとして村の経済を支えるまでとなった。
施設の一角には、展示即売会場もある。そこに飾られた無数の可愛らしい小さな人形たち。
「今日は、可愛らしいものがヒットだな」と僕は一人ニンマリとしていた。「あの娘と、あの娘と、あの娘にお土産に買って帰ろう」
そんな計算をして人形をいくつか買い求めた。
アーントーン・アユタヤ編の旅の初日はこうしてゆっくりと暮れてしまった。
不用意にも女っ気の少ない一日だったが、そんな日があってもいいように感じられた。可愛らしいガイドのヌンに、可愛らしい小指ほどの人形たち。
それだけでも収穫だと思うことができた。このささやかな感動を胸に明日のアユタヤでは弾けるようにしたい。
そんな決意を抱きながら今日を終えることにした。
(つづく)