絶賛連載中のキモオタ肥満男がタイの全県を駆け巡る「早撃二郎のタイ77県珍紀行」は前回から深南部ナラティワート県と隣県のパッターニー県を電撃訪問。
ムスリム(イスラム教徒)が8割超すこの地で僕を待っていたのは、イスラムの地ゆえにビールになかなかありつけない苦難と、そこらじゅうの公道を闊歩し
僕の尻をつついて回る深南部固有の種、野良ヤギの存在だった。
「メェ~」
置屋ホテルで衝撃的な出会いを体験
「アタシ、ハヤシ・フジコ!」
バンナラ川沿いに建つ二階建ての置屋ホテル「ナラティワートホテル」。
突き当たり奥の二階205室に入ろうとした僕に声を掛けてきたのは、真っ赤なワンピース姿の40歳は超えていようかという小柄な小太りのおばちゃん
「ハヤシ・フジコ」さんだった。
こんなところで、なんで日本語?この人は一体、何者?
タイ語で返事をしても、お構いなしに日本語で返ってくる。しかも、かなりの流暢。
だが、何らの嫌みもなく、癖もない。次第に打ち解けてきた僕は、このおばちゃんともっと話したくなって
荷物を部屋に置きに行くと、すぐさま踵を返して階下の彼女の部屋に向かった。
部屋の前で、真っ赤なプラスチック製の椅子に一人座り、客を待っていたフジコさん。
僕を再び見つけると、「どうしたの?」と満面の笑み。そこで、思い切って「フジコさんともう少し話しがしたいんだ。ビールでもどう?」と誘ってみた。
この日は客が少なかったのか、快諾してくれたフジコさん。
「でもね。早く店じまいするんだから、少しだけでいいからチップ頂戴ね」と忘れない。
僕も「いいとも!」と応じて、ホテルのフロントに併設された食堂でさっそく飲み交わすことになった。
束の間の着替えを終えて、普段着姿で現れたフジコさん。肩まで下ろしていたブロンズの長い髪も、ポニーテールに変えて、後ろで結んでいた。
ともに注文したのは、もちろん僕の大好きなリオ・ビール。早速、自己紹介をして、彼女の身上を尋ねた。
「アタシね、ダンナが日本人だったの」
なるほど。東北部イサーン地方ウドンターニー県出身の彼女。聞けば、かつて日本人の男と結婚し、スクンビット界隈で暮らしていた。
ご主人はタイにある自動車部品の工場に勤務。ところが、ガンに冒され、間もなく他界。失意に震えながらも、やがて新しい出会いにも恵まれた。
次いで結婚した相手も日本人だった。日本とタイを頻繁に行き来するビジネスマン。この男性も人当たりがよく、気立てのよい人だった。
フジコさんに財産を残してあげようと、購入した土地がナコーンラーチャシーマー県にあるという。
ただ、タイでは外国人が土地を持つことはできない。このため、契約名義上はフジコさん。
毎月のローン返済をご主人が行っていた。
ところがである。二度目の悲劇が、それから間もなくして訪れた。夫が脳梗塞で倒れてしまったのだ。
日本でリハビリを続けるが、麻痺の残る不自由な身体は夫婦の関係さえも引き裂いてしまう。
夫がタイに戻ってくることは二度となかった。
こうして、一人残されたフジコさんは一身で不動産ローンを背負い、銀行に毎月2万バーツの支払いを求められている。
「ナラティワートのこの店では、どれくらいの期間、働いているのですか?」
気になって尋ねてみると、少し間を置いて「そうねえ、1カ月くらいかな」と、視線の外れた乾いた返事が返ってきた。
客1人につき500バーツ。1日当たり5人も付かないだろうから、1000バーツか1500バーツもあればいいほうだ。
この中から、1泊300バーツを毎日「家賃」としてホテル側に支払っているという。
一方、残った住宅ローンは、どう少なく見積もっても数十万バーツは下らないに違いない。
5年、10年、それ以上働いて、ようやく返せるかどうかの金額だ。
彼女の仕草やホテルスタッフとの会話、部屋の様子からして、最低でも2、3年はここで暮らし、やりくりしているとの印象を受けた。
フジコさんとの宴会は結局、深夜零時ごろまで延々と続いた。会話の節々で思い出したのか、時折、日本の懐かしい歌謡曲を口ずさむシーンもあった。
「日本人と話すのは久しぶり」と繰り返し語っていた彼女。故郷に触れたかのように楽しんでいた。
「日本人の姿は滅多に見ない」というタイ最南端の一つナラティワート県で、どんな思いで僕とビールを飲み交わしたのか。
機会があれば、いつかまた、会いたいと思った。
翌朝、早起きした僕は、思い残すようにナラティワートホテルを後にすることにした。
出がけにフジコさんの部屋の前に来てみたが、扉は固く閉まり、在室しているのか外出しているのかさえ分からない。
「フジコさん、頑張ってください。ありがとうございました」と
扉の前でそっと挨拶をして、次の訪問地を目指した。
置屋を求めてマレーシアとの国境へ
向かったのは、さらに南下したマレーシア国境のスンガイコーロック。
バンコクから延びるタイ国鉄南部本線の終着駅、タイ最南端の街だ。南部本線の全線開業は1921年。
間もなく1世紀となる歴史の街でもある。かつては、マレー鉄道東岸線と直通運行を行い、貿易拠点としても賑わった。
ここに僕が足を運んだのは、駅から南の一帯が今では知る人ぞ知る「置屋の街」として語られているからだ。
客はもっぱら国境を越えてやって来るマレー人やインド人。加えて現地のタイ人。さらには、旅するバックパッカー。
一体どんな体験が待っているのか。心を躍らせて、現場を訪ねることにした。
スンガイコーロックでの置屋めぐりは、リノベーションを終えたばかりと宣伝していたグランドガーデンホテルを拠点とした。
とはいえ、築数十年が経つこのホテル、所々でカーペットは剥げ、現代の旅には必須のWi-Fiも快適とは言えなかった。
地域柄もあるのだろう。客層はインド人などのベンガル系が多かったように思われた。
このホテルの回りには、カラオケ置屋が計35店舗、エロマッサージ店と思しき店が2店舗あった。
うちホテル裏にあるカラオケの6、7店は、舗装もしていない雨が降ればぬかるみになることが確実な赤土の路地に軒を並べていた。
お世辞にも衛生状態は良いとは言えない、スラム街にあるかのような置屋未舗装地帯。
ところが、こんな場所にも、一目見て遊びたくなるような可愛い女の子がいた。手を振って声を掛けてみると、笑顔で返事が返ってきた。
摩訶不思議のエリアだった。
もう一つ、カラオケ置屋が密集している地域があった。どちらに宿泊するかで最後まで悩んだマリーナホテル。
駅から徒歩10分もかからないこのホテルには、マレー人や中国人が大型バスで乗り付け、深夜遅くまで大声を挙げて闊歩していた。
同ホテルの周囲一帯にはカラオケ置屋が計28店舗、ディスコが2店舗あった。
客層がややリッチな外国人が多いせいか、辺りの道は細い路地も含め、しっかりと舗装がされ、それなりに掃除が行き届いていた。
心なしか、店の前で客待ちをする女の子たちも総じて垢抜けていて、躍動感あふれる娘が多いように感じられた。
どんなシステムなのか気になって、聞いてみることにした。
いくつかの店で確認してみたところ、ここに来る多くの客は昼前から置屋巡りをし、好みの女の子を決め、予約をしていくのだという。
当日あるいは翌日、お相手と合流してデートが始まる。食事と夜も含め、ほぼ丸一日付き合って3000バーツ・プラスチップが相場。
ショートは、女の子が非効率だと嫌がって、あまりないという。客の中には、目当ての娘の身体が空くまで、何日も滞在する者さえいる。
完全に置屋業で成り立っているエリアということが分かった。
一通り散策してみたが、僕にはどうも馴染めない。マレー人や中国人が多いせいか、ひどく慌ただしく、やかましく感じた。
このため、せっかく足を運んだマリーナホテル一帯を諦め、再び宿泊地のあるグランドガーデンホテル界隈を目指すことにした。
二つの置屋地帯を結ぶ通りは、すっかりと闇に包まれていた。とはいえ、時計の針はまだ9時を回ったばかり。
すっかりと疲れた僕は、一方でビールで火照った体を夜風にさらしながら、どこともなくホテルの方向を目指した。
目の前にピンク色の店が現れたのは、それから間もなくのことだった。
その店は、プラチャーウィワット・ソイ3にあった。店名は「ワンダム・ヌン」
見た感じは、ピンク色が基調のごくフツーのカラオケ置屋。
ただし、客が少ないためか、カラオケを楽しみたいという地元民も客として受け入れているということだった。
その日も、5、6人の地元のおっちゃん、おばちゃんが来店して、たっぷりと熱唱を繰り広げていた。
店内では、おっちゃんとおばちゃんがカラオケに興じ、僕は店の前のオープンスペースで一人、リオ・ビールをすすっていた。
そこへ店外から一人の30歳ぐらいのジーンズ姿のお姉さんが姿を現した。店員なんだか、客なんだかよく分からない。
通りに面した隣の席に腰を下ろすと、半分こちらに背を向けてスマホをいじっている。
色白の、10年位前は美人で鳴らしたような横顔だった。だんだんと酔いが回ってきた僕は、そのお姉さんに声を掛けてみることにした。
ところが、なぜが聞こえないふり。店員に促されて振り向くと、明らかに緊張しているのが分かった。
名をサムシヤーといった。聞けば、チェンライ出身の自称28歳。この店の、非常勤店員らしかった。
気が向いた時にやって来て、気が向いただけ働き、日払いの給料をもらって帰るという生活らしかった。
ぶっきらぼうではないが、口数は少なく、あまり目も合わせない。
だが、僕は妙にこのお姉さんが気にいって、それからしこたまビールを注文した。
サムシヤーには、スンガイコーロックでの暮らしも訪ねた。チェンマイ出身でタイ人だから、自身は仏教徒。
だが、客のほとんどはイスラム教徒(ムスリム)のため、ここで働く女の子のほとんどはムスリムの名を持っているのだとか。
彼女にも「トゥリモカヤー」というムスリム名があった。意味を聞いたが、忘れた。
もう一つ。深南部三県の人々の多くは、マレー語の方言と位置づけられる「ヤーウィー語」が話せる。
彼女も、流暢にそれを繰った。そこで、暇つぶしも兼ねて少しばかり教えてもらうことにした。
タイ語で言う「年上(ピー)」はヤーウィー語で「ガ」、「年下(ノーン)」は「デ」だった。
「ありがとう」はマレー語がやや訛って「タリマカセー」だと教えてくれた。「ビールを飲む」は「マナン・ビア」
他にもいろいろ聞いたが、今はもうそれしか覚えていない。
そんな遊びを小一時間しただろうか。すっかり打ち解けたサムシヤーだったが、「一緒に帰りたい」とは決して言わない。
そこがまた気に入った。だが、不覚にも僕はすっかり酔いが回り、そのまま眠り込んでも不思議はないほどの状態だった。
会計をし、千鳥足で一人ホテルに向かう僕の後ろ姿を、悲しそうに見つめるサムシヤーのまなざしが愛おしかった。