シーサケート・ウボンラチャタニー県 (中):早撃二郎のタイ77県珍紀行

微笑みの国タイの女の子とのときめく出会いを求めて、キモオタ肥満男がタイの全県を駆け巡る「早撃二郎のタイ77県珍紀行」は前回から新シリーズ。
東北部イサーン地方のシーサケート・ウボンラチャタニー県編の2回目。
前日昼間にカンボジア国境の「カオ・プラ・ウィハーン国立公園」巡りを済ませた僕は、その夜はシーサケート県の外れにある知人が持つアパートに投宿。
近くにあった妖しげなローカルカラオケに立ち寄ったところ、見事にボラれる羽目となった。
出っ歯のオカマは頼んでもいない量のビールやヤムを勝手に注文し、自分の食事としていて図々しいことこの上ない。
両脇に付いた女の子も自分たちのお喋りに夢中で、接客もなくすっかり興ざめ。それでも気を取り直して2日目に備えようと決意した僕。
さあ、どんな出会いが待っているのか。まずはシーサケート県の残る見所に向かった。

シーサケート県の残りの見どころを回る

この日、最初に訪ねたのは国道24号線から7~8キロ南下したところにある寺院「ワット・パー・マハー・チェディー・ゲーオ」
通称「百万本の瓶の寺」という名の珍寺だった。遠目に見るとなかなか荘厳な造りの寺だが、仏閣や参拝殿に近づくにつれてその正体に唖然とする。
何と、建物という建物の壁、床、天井にビールや栄養ドリンクの空き瓶が敷き詰められ、緑色と茶色の見事な文様を作り出しているのだ。

寺によれば、1984年の開所間もないころ、当時の住職だったルワン・プ・ロット僧が近くに大量に投棄されていた瓶の再利用を思いついたのがきっかけだったとか。
空き瓶を装飾代わりに使えば、新たに塗装などを施す必要がなく、安上がりになるという程度の軽い気持ちだった。

はじめは僧侶の仲間うちに声を掛けて廃棄瓶を集めていたのだが、次第に話を聞きつけた地域住民たちが「それならば」と協力を申し出て、寺に持ち込むようになった。
こうして集められた空き瓶は少なく見積もってもざっと150万本以上。
涅槃仏の服飾や鐘楼、僧侶の住まい、洗面台に至るまでびっしりと敷き詰められいる。

瓶は整然と並べられ、抜け落ちないように隙間に漆喰が塗り込められている。
これならば、崩れる進歩もない。大きな瓶は、ビアチャンやシンハ、ハイネケンが目に付いた。
中くらいの瓶は、もっぱら飲料水の空き瓶。そして、背丈が15センチほどの小瓶は、レッドブル(クラティンデーン)やM150などの栄養ドリンクだった。
タイの栄養ドリンク市場で最も古い歴史を持つ日本のリポビタンDもあった。

※ここがメインの礼拝堂。建物全体にびっしりと様々な瓶が張り付けてあった。緑の瓶はビール瓶。遠くから見ると太陽光が反射しキラキラして綺麗でインスタ映えする寺だと思った。
※住民が僧侶に瓶を寄進する様子を描いた図画。
※礼拝堂内部も瓶で埋め尽くされている。
※礼拝堂脇の池の手すりにも瓶の飾り。
※トイレの内部もご覧の通り徹底されている。
※涅槃像にはビールの空瓶ではなく栄養ドリンクの空瓶が使用されていた。
※ラベルを剥がしきれなかったのだろうか?
※大正製薬のリポビタンDの瓶もあった。

次に立ち寄ったのが、タイ人観光客の間で「インスタ映えするシーサケートの寺院」として知られる「ワット・プラタート・スパンナーホン」だった。
シーサケート中心部から北に15キロほど行った畑のど真ん中。100メートル四方ほどの池の中央部に、水に浮いた船の形をした礼拝堂が特徴だ。
正面から通じる桟橋は5つの頭を持つナーガ(蛇の精霊)に守られていて、威厳もたっぷり。
※カラフルな形をした礼拝堂。

礼拝堂は2階建てで、上階部に座物が鎮座しているらしく、ひっきりなしに参拝客が訪れていた。
周囲に障害物などはなく、ここならばドローンを飛ばして空撮も可能と見えた。早速、僕も愛機を取り出して上空を旋回。
牛の放牧があちこちで見られた。
※寺の周りは一面の田畑になっていた。

その後はさらに、シーサケート中心部にまで引き返して、この地方では珍しい水族館に向かうことに。
フワイナムカムという小さな池の中に浮かぶ中之島全体がチャロームプラキアット公園内で、水族館はその嶋の敷地内にあった。
入口のすぐ手前には水槽。小さな子どもを連れた母子たちが、熱心に魚に餌付けをしていた。
※水族館入口前の水槽では子供たちが鯉に餌付けしていた・

屋内はエアコンがしっかりと効いていて、全体的に薄暗く、奥行きがかなりあった。
ラオスとの国境をなすメコン川に棲息する大ナマズや、正体不明の気味の悪い淡水魚たちが展示されていたほか、スッポンのような亀もいた。
展示室の一部は水中トンネルのような構造になっていて、頭上を魚が遊泳する姿も楽しめた。
ただ、どことなくのんびりしており、日本の水族館でマグロが高速で泳ぎ続けるようなアクション性はなかった。
※メコン川をコンセプトにしあメイン水槽。

※かなり大きなメコン大ナマズも悠々と遊泳していた。

いよいよウボンラチャタニー県へ

途中のタイ料理屋で昼食を終えた僕は、いよいよウボンラチャタニー県へ。約50キロの道のりをレンタカーで飛ばした。
ウボンでも目に焼き付けておきたい寺院があった。
今から60年ほど前の1955年ごろから数年をかけて当地に建造されたという「ワット・プラタート・ノーンブア」
ウボンの観光名所でも3指に入るという古刹だった。

釈迦(仏陀)の生誕2500年(西暦1957年)を祝って建てられたというこの建物。
白地に金色の縁で飾られた仏塔はひときわ華やかで、ユネスコの世界遺産に登録されているインド東部ビハール州にあるマハーボーディ寺院とどこか似ている。

それもそのはず。「ブッダガヤの大菩提寺」の別名を持つ同寺院は
釈迦が悟りを開いたのを記念してガンジス川に近いその場所に紀元前530年ごろ建てられたもので、ウボンの寺はそのいわば復刻版。
インドのそれが高さ52メートルあるのに対し、ウボンのは約55メートルと一回り大きく、建物の中には釈迦の遺物が保管されているという。
仏教の国タイで大切にされないわけがない。夜間のライトアップでは、金色の仏塔がきらびやかに浮かび上がるという。
のんびり眺めていたい瞬間だ。
※ワット・プラタート・ノーンブアの仏塔。

※仏塔の中は赤と金の装飾で埋め尽くされていた。

名所をゆっくりと3カ所も回ると、太陽も西にやや傾き始めた。
そこで僕は、あらかじめネットで予約しておいたホテルへと向かうことにした。
ウボンラチャタニー中心部、空港にも近い「トーセーン・シティ・ホテル」
そこで2日ほど滞在し、ゆっくり街を散策するのが計画だった。

ホテルは、東西に延びるパロチャイ通り沿いにあった。付近は政府機関や、何とウボンラチャタニー中央刑務所もある比較的静かなエリア。
その通りにポツンと建つ低層階の建物がこのホテルだった。道路側とその奥にある2棟の建物が階上の歩行通路で結ばれている。
僕が案内されたのは、奥にある建物の2階の部屋だった。

部屋は200㎡ほどのゆったりとした造りだった。大きなダブルベッドが一台。
仕事ができるような机と椅子もあった。洗面台は、どこにでもあるようなトイレと共用。
バスタブはなく、若干の古さは感じたが、切り詰めた旅を日常とする僕にはこれで十分だった。

少し休んだ後に、まずは腹ごしらえだと向かったのが、ホテルから北東に1・5キロほどの距離にある日本食料理店「おしねい」だった。
ウボンラチャタニーの日本食では、筆頭に挙げられるのがこの店だとネット情報で目にしていた。
昨日も今日の日中も、ずっとタイ料理だったから、和食が食べたかった。ホテルからはタクシーで向かった。

2階建ての建屋の手前には10数台は止められようかという駐車スペースが広がっており、午後7時の段階で半分以上が埋まっていた。
左手奥の入口から入店した僕は1階のテーブル席に通され、周囲を見回した。同様の席がほかに10卓ほど。
2階にも同じくらいのテーブル席と、接待用の個室席があると女中に聞かされた。

一番人気は日本食ビュッフェだと、おばちゃん女中のヌイが話しかけてきた。ウボンの出身だという。
メニューを見ると、順に299バーツ、350バーツ、500バーツとあるのが分かった。
前者二つは、焼き物や鍋物が中心だった。ここは豪華にと考えていた僕は、刺身や寿司が食べ放題の500バーツのビュッフェを選んだ。
ビールはもちろん、大好きなリオビールを頼んだ。

女中のヌイによると、「おしねい」はもともと「おしん」というのが店名だった。
ところが、数年前に「おしねい」に。「おしん」がNHKの連続テレビ小説から採ったことは想像に難くない。
では、変更の理由はと尋ねても、彼女は何も知らなかった。「おしねいだと、意味が分からないよ」と教えてあげると、「えー!そうなの」と驚いた様子をしていた。

オーナーはタイ人で、なかなかのやり手ビジネスマンだとか。
ウボンのほか、チェンライ、スリン、コラート、コンケーン、ムクダハンなどに出店しているということだった。
海外店としてラオスのビエンチャンにも店があると話していた。料理は何とか合格点だったが、従業員の教育はしっかりしていた。
久しぶりにタイの地方で、満足する日本食を堪能した。

ウボンラチャタニーの置屋散策へ

さぁて、腹も満ち足りれば、後は夜遊びと相場は決まっていた。
実はこの辺りに宿を取ったのには、大きな訳があった。今やタイの全域で絶滅危惧種となっている古典的な風俗の「置屋」
その観察をするのが今回の旅のもう一つの目的だった。
ご多分に漏れず、ウボンの置屋もイエローリスト(絶滅危急)からレッドリスト(絶滅寸前)に移行しかかっていた。
事前の情報とこの後に紹介していく実地調査で、この界隈では4軒しか存続していないことが分かった。

ウボンの置屋は、チャワラナイ通りとソイ・チューンサンット2の2カ所、2店舗ずつの計4店舗がわずかに生き残っていた。
前者の2軒は軒を連ねており、一方がバービア置屋のたたずまい、その隣が青いトタンで目張りされた建物だった。
いずれも、わずかの女が客引きをしているが、年齢が高かったり恰幅がよかったりと入店意欲はどうしても沸かない。その先を目指すことにした。

チャワラナイ通りの2軒を通りすぎ、その先を左折したのがソイ・チューンサンット2だった。
まずは20メートル先の左手にピンク色のカラオケ置屋が見えた。近づいてみたものの、前日の出っ歯オカマに似たおばさんが一人でいて、すぐさま退散した。
さらにその先、10数メートル歩いた同じ左側に、今回取材に成功した店があった。

その店の名は「ホンアーハン・ピーノーン」と言った。直訳すれば、「姉妹で経営するレストラン」となる。
だが、どこをどう見てもレストランには見えない。街の食堂でもない。
ピンク色に醸し出された2階建ての建屋1階の、向かって左端の一間ほどが売店、その右側の三間ほどが一目してカラオケ置屋と分かる外観となっていた。

売店の前にあるベンチに比較的若いとみられる女の子が座っていた。話しかけると、ナムという地元の出身の19歳。
決して美形ではなかったが、ワンピースからはみ出た乳は天然モノだと話していた。
真偽を確かめたくて、少しだけ触ろうとしたが、あからさまに手をひっぱたかれた。少なくともこの辺の4軒の中では、客が付きそうな店であり、女だと感じた。
※巨乳のナムちゃん19歳。体型はムチムチ系。

店舗を挟んで道路の反対側の空地前にドラム缶のテーブルと椅子を置き、客の呼び込みをしていたのが日本語堪能なおばちゃんジョイさんだった。
チェンライ出身の49歳。日本の家電メーカーで働いていたことがあったといい、日本語を覚えたのはその時とか。

大学生と高校生のいずれも娘二人がいて、仕送りのため、かれこれ3年、この置屋で客引きの仕事をしているのだと話していた。
下の娘を大学に通わせるまでは辞められないとも。そのジョイさん、最近少しグッドな話も舞い込んできたという。50歳代の日本人とSNSで連絡を取り合っていて、近々、初対面を迎えるのだという。大人の恋。どうにか成就してほしいと思った。

・・・つづく。