ナコーンラーチャシーマー県 (上):早撃二郎のタイ77県珍紀行

素敵なタイガールとの出会いを求めて、キモオタ肥満男がタイの全県を駆け巡る「早撃二郎のタイ77県珍紀行」。
今回から新たな訪問地、東北部ナコーンラーチャシーマー県(古名コラート)を巡る旅。
国内で最も広い面積を持ち、バンコクに次ぐ260万人を超える人口を抱える県。
かつてはクメール王朝の重要な拠点でもあり、タイの国鉄史上、最も早く鉄道の建設が始まったのもバンコク~ナコーンラーチャシーマー区間だった。
さて、どんな出会いが待っているのか。
バンコクでレンタカーを借りた僕は、踊る心を抑えながら、国道1号線から2号線に向けてハンドルを切った。

イサーン地方の玄関口を目指して!

パホンヨーティン通り(国道1号線)をひたすら北上し、アユタヤ県からサラブリー県に入ると右に分岐するのが国道2号線だ。
そのまま真っ直ぐ進むとナコーンラーチャシーマー県に達し、コンケーン、ウドンターニーなどを経て、ラオス対岸の街ノーンカーイへと通じる。
全長520キロ。その約55キロ地点に、最初に目指した牧場がある。

「チョークチャイ牧場」
広大な敷地に牧畜場、酪農場、飼料工場、屠殺場、食品加工工場、果樹野菜農場、レストラン、売店、キャンプ場、博物館などがある。

家畜の種類は肉牛、乳牛が中心だが、馬や山羊など他の動物も育てており
乳搾りや乗馬体験、カウボーイショーなども楽しめるちょっとしたテーマパークとなっている。
場内ツアーは一人300バーツ。

開業は1957年。
現会長のチョークチャイ・ブラクン氏が、無人だった約250ライ(約40万㎡)の原野を買い取り、畜産業をスタートさせた。
タイでは農作業の労働力として主に利用され、食用としてはあまり見向きもされなかった牛。
「美味しい牛肉をタイの人々にも食べてほしい」との願いが、事業化のきっかけだった。
71年には、当時タイで最も高い建築物だった26階建てのチョークチャイ・ビル(バンコク)の23階に「チョークチャイ・ステーキハウス」を開店。
ステーキ文化の発展にも努めた。

肉牛の繁殖は69年に始まった。
アメリカ南部の亜熱帯地域に適合するよう品種改良されたブラーマン種や、豪州で多く飼育され暑さや乾燥に強いサンター・ガートルディス種を輸入。
タイの伝統牛との交配により独自のブランド牛を誕生させた。これが、チョークチャイステーキの源流となっている。
 70年代後半から80年代にかけては、乳牛事業にも本格進出。オリジナルブランドの「チョークチャイ牛乳」として
殺菌・ボトリングまで行う総合工場も建設。流通ルートの整備も行った。
チョークチャイ牛乳はタイ人なら誰もが知るタイ産ブランド。タイ人が本格的に牛乳を採るようになったのには、同社の負うところが大きい。

酪農場では3000頭を超す乳牛が常時放牧されている。
ドイツ・ホルスタイン地方を産地とするホルスタイン・フリーシアン種とタイの伝統牛を交配した(交配率はホルスタイン97%)
オリジナル乳牛「チョークチャイ・フリーシアン種」。ほのかな甘みのあるのが特徴の牛乳として知られている。
搾乳は1日3回。総日量は平均22トンで、ここから約18トンの牛乳を得ている。
このうち4分の1を飲料用に、残りを各種乳製品に加工している。生乳については外部への出荷も行っている。
牛たちの餌となる飼料製造工場も敷地内に建てられている。
特に乳牛は生乳を生むため体内で膨大なエネルギーを必要とする。熱帯のタイでは栄養分を十分に摂取しないと、良質な牛乳を得ることはできない。
そこで、粉砕したトウモロコシやキャッサバ、大豆滓や魚粉を独自の配合で混ぜ合わせたペレット状のオリジナルな餌を与えている。
 飼料の生産能力は月産3500トン。約20%を場内で使用し、残りは提携する農家や顧客に販売されている。
チョークチャイ牧場で作られる餌は高エネルギーの高タンパクで、高品質品として広く流通もしている。
動物向けのサプリメントとしての販売も行っている。今では、重要な事業の柱の一つとなっている。
 チョークチャイ牧場グループは、牧場経営を行うチョークチャイ牧場株式会社を旗艦会社に
飼料生産会社、食品加工・レストラン運営会社、農業経営者らを顧客としたマーケティング・コンサルティング会社
場内ツアーやキャンプ場運営および小売りなどを担当するマーチャンダイジング会社、不動産管理会社などからなる企業群を構成する。
事業が成長した現在は、創業者のチョークチャイ会長はもっぱらシンボル的なポジションに退き
グループの実務は息子のチョーク氏がマネージング・ダイレクター兼最高経営責任者として取り仕切っている。

牧場併設のチョークチャイ・ステーキハウスで僕が注文したのは、もちろんここで育った「チョークチャイ・プレミアムテンダーロイン」。豪州産などもあったけど、ここまで来たんだから外国産はパス。赤身肉の鮮やかな1250バーツのステーキを太っ腹にも注文した。

15分ほど待ってテーブルに到着したのは、肉汁したたるお待ちかねの赤身ステーキ。
鉄板もほどよく熱せられ、軽快な音を立てている。付け合わせのポテトや野菜類からも湯気が立ち昇り、スタンバイ十分だ。
フォークとナイフで肉を切り分ける。ミディアムレアの焼き加減もちょうどいい。一切れ口に含んでみた。
思った以上に柔らかく、それでいて旨味が強い。噛めば噛むほど、その味わいが口中に広がっていく。

「ああ、これは熟成肉だ」

以前、どこかで読んだことがあった。ドライエイジング、すなわち熟成肉は、かつて冷涼で空気の通りのよい洞窟や倉庫などで食肉を眠らせた保存法だ。
肉に含まれるタンパク質が分解されることでアミノ酸が増し、微生物と酵素の働きによって旨味が強くなることで知られ、日本でも数年前にブームとなった。
チョークチャイ牧場でも、この方法で肉を提供していたんだ。
僕はなんだか嬉しくなって、あっという間にステーキを平らげ、もちろんおかわりもした。

コラート市街地の観光スポットとは

お腹がいっぱいになった僕の次なる目的地はコラートの中心部。
そのまま国道2号線を東北東に向けて進み、1時間と30分。100キロほど走ったところに旧城郭がある。15世紀ごろまで続いたクメール王朝(アンコール朝)のころ、街の中心は現在の市街地から南東に約30キロの場所にあった。そのうちの一区画をコラートと呼んでいた。
 アユタヤ王朝時代の17世紀、当時のナーラーイ王はこれらの市街地を統合し、現在の地に移してナコーンラーチャシーマーと改名する。これが今に続く県のルーツである。ナーラーイ王は四角形状に堀を作り、城壁を築いた。その範囲は南北に約1・5キロ、東西に約2・5キロ。当時のこの地はアユタヤ朝の勢力が及ぶ限界地で、国境都市としての役目を果たしていた。
 時代が下り、現チャックリー王朝になると、ナコーンラーチャシーマーはさらなる発展を遂げるようになる。東北部の商取引の拠点として成長を続けた。特産であった絹や獣皮、犀角、エゴマなどがバンコクへ搬送されていった。1900年12月21日に、タイで初めての国鉄路線区間バンコク~ナコーンラーチャシーマー間が全線開業すると、その地位と役割は一層の高まりを見せる。東北部最大の産品であるコメが、鉄路で大消費地バンコクに運ばれるようになった。
旧城郭の東西南北の端には、白亜の城門が存在感を増して今も鎮座している。

このうちの西に当たる場所にあるのがチュムポン門で、その眼前には一人の女性像が建つ。
19世紀前半、ナコーンラーチャシーマー副国主であったモー夫人のもので、夫人は1826年
現在のラオスにあったヴィエンチャン王国のアヌ王の攻撃を、夫の不在時に撃退したことで知られる人物だ。
 当時のラーマ3世はその功績をたたえ、モー夫人に対し「ターオ・スラナーリー」の称号を贈る。
合わせて毎年3月末から4月上旬にかけてを街を挙げての「ターオ・スラナーリー記念祭」とし、県最大の祭りとして多くの出店が出店するなど現在も続いている。
 祭りでは、19世紀のころからこの地方に伝わる伝統舞踊「プレーン・コラート」が披露される。
伴奏や音楽なしに男女が交互に歌を掛け合うもので、日本の連歌にどこか似ている。
人々は歌い踊りながら、モー夫人に感謝をし、祈りと願いを捧げる。
ナコーンラーチャシーマーの人々に愛され続ける夫人の像の前には、多くの参拝客が連日列をなしている。

遺跡の街ピマーイで歴史に触れる

市街地での偵察を終えた僕は、まだ宵の口までは時間もあることから、さらに足を伸ばして歴史の旅に出ることにした。
中心部から北東に約55キロ。国道2号線を右に折れ、そこから10キロもいかないところに「ピマーイ遺跡」はある。
幅670メートル、奥行きが1000メートル以上もある最大のクメール遺跡で、かつ大乗仏教遺跡。
建立は11世紀後半から12世紀後半にかけてとされ、アンコール・ワットよりも先に完成したとみられている。
 当時、この辺りはアンコール朝の支配地域の北端で、ピマーイ遺跡がアンコールへと通じる古道の終着点だったと判断されている。
通常は東向きに立てられるクメール遺跡が、この遺跡だけが南のアンコール都城を向いていることがそれを物語っている。
一帯は当時、古代クメール語でヴィマプーラあるいはヴィマヤプーラと呼ばれていた。
後にピマーイと変化したものと考えられている。

建立にはジャヤーヴァルマン6世ら複数の王が関わった。
アンコール・ワットと同様、歴代王の庇護を受けたヒンドゥー教色の強いヒンドゥー神殿だったが
アンコール朝初の仏教徒だったジャヤーヴァルマン7世によって1200年ころ大乗仏教寺院に改宗された。
金剛薩埵など密教の影響を残すレリーフもあり、いくつもの宗教が複雑に絡み合って現在に続く様子を見ることができる。

ピマーイ遺跡は、中央に位置する祠堂を取り囲む内周壁「ラビアンコト」とそれを周回する外周壁「ガンペーンケーオ」の2重構造となっている。
祠堂は仏舎利室と礼拝室から成り、アンコールの方向を指す南壁面にはヒンドゥー教の主神シヴァ神が掘られている。
外周のガンペーンケーオには四方に城門が築かれ、南面には「プラトゥーチャイ(勝利門)」
北面には「プラトゥーピー(精霊門)」、西面には「プラトゥーヒン(岩の門)」、東には「プラトゥータワンオッ(東門)」がそびえる。

長らく密林の中で忘れ去られていたところ、1901年にフランスの探検家が発見。
後にタイ政府が保存を決定し、フランス政府の援助を受けて64年から発掘・修復作業が始められた。
89年には故プミポン国王の娘シリントーン王女を迎えて一般公開されることとなり、付近一帯を「ピマーイ歴史公園」と名付けるようになった。

南方から場内に入ると、砂岩で作られた十字型の橋がまず目に入る。全長30メートルを超す「ナーガ門」である。
インド神話に起源を持つ蛇の精霊ナーガをモチーフとした7頭のナーガが、橋の欄干として飾られている。
人間界と天界をつなぐ橋と考えられている。

ピマーイ遺跡を出るころ、陽は西に傾きつつあった。
今回もまた、訪問初日は歴史の旅で終わってしまった。難しい用語ばかりですっかり頭の混乱した僕の身体は、液体燃料のビールを欲していた。
少し辛めのイサーン料理に大好きなリオ・ビール。その後は、もちろんお姉ちゃん巡りが待っていた。
僕はそそくさと車に乗り込むと、歓楽街のあるコラート中心部へと向かった。
まずはホテルにチェックインして、シャワーを浴びてからのメシだ。心はすでに躍っていた。

・・・つづく。